【映画感想】「私、オルガ・ヘプナロヴァ」@シアターフォーラム【2023.5.5】

この記事をシェアする

昨年、私が脚本を書いたミュージカル『Killer Queens!』で取り上げた、実在したチェコシリアルキラー、オルガ・ヘプナロヴァ。

22歳でトラックによる無差別殺人をおこし、チェコスロヴァキアで最後の女性死刑囚として絞首刑に処された彼女の自伝的映画を、私は作劇中に全編みることがかなわなかったが、今回渋谷シアターフォーラムでの上映があるという情報を得て、ようやく日本語訳で全編を鑑賞することができた。

 

白黒の画像は、言葉少ななオルガの心象風景を思わせる。淡々と、でも少しずつ小さなヒビがはいり、それが繕われないままひろがっていくようにオルガの精神が軋み、真綿で首を絞められるように息苦しさを増していく彼女の日々を、映画は観客のウェットな感情に訴えかけることを排してすすんでいく。

病院での苛めや恋人との破局等の大きな出来事の他にも、人から見ればほんの些細なこと、だけどオルガから見れば、そしてオルガに近い体験や感情を知っている人間からみれば十分に破綻的だと思われる出来事が、感じやすい彼女の生活にはガラスの破片のように散りばめられていく。

家族と愛情や信頼をもって交流できず、病院でいじめにあい、職場にもなじめない。居場所がないオルガは、つねに毛を逆立てている猫のように体を硬直させているが、同時に人との交流を求めてもいる。が、上手でないやり方のせいで、彼女はうまくその関係を続けたり、自分を満たすことができない。

映画を見る時、なんでもかんでも自分に引き寄せてみるのはあまりよい鑑賞の仕方ではないかもしれないけれど、私はこの映画で描かれた「奇妙で不可解」と人からは思われてしまうオルガの行動と、その行動を選択する心の動きの幾つかがわかってしまう気がして、共感性羞恥ならぬ共感性苦痛的な痛みを感じる場面が多々あった。

列に割り込まれるなどのイレギュラーに対応できず、フリーズしてしまって他の人の邪魔になる場面。

運転手としての仕事中に、妊婦さんに「安全運転でね」と言われてもスピードを落とさない場面や、お客様をのせた後に車道をトラックで塞がれて歩道の階段を車で走る場面等、おそらく多くの観客には「オルガは不機嫌で、人間に優しくしたり気遣ったりすることやルールを守ることに興味がないから、そういう行動をとるんだ」と思われるだろう。

だけど、穿った見方かもしれないのは重々承知のうえで、私はオルガの上記の行動の意味がわかる気がするのだ。

妊婦さんに「安全運転でね」と言われてもスピードを落とさないのは、妊婦さんに「スピードを落としてほしい」と言われてないから。オルガは自分の運転スキルに自信があるので、「安全運転でね」と言われても(自分は今安全に運転をしているからOK)という認識でそのまま走ってしまう。

歩道を走ったのも、仕事で乗せたお客様を目的地まで送り届けるためにそうしたのであって、オルガは多分、車で歩道を走るルール違反やお客様の驚きが視野に入っていない。「仕事をちゃんとする=お客様を車で送る」ということに意識が全振りなのだと思う。

当然だが彼女の行動は理解されず、クレームになり、会社から解雇をされてしまう。オルガからすれば、まったく理解も納得も出来なかったはずだ。彼女は彼女なりに仕事を真面目にやっているのだから。

オルガは、時代が少し違えば発達障がいとして診断され、療育を受けられた人なのかもしれない。だけど、そうはならなかった。彼女を気遣う友人もいたし、家族とも絶縁していたわけではない。仕事をして、生きようとしていたし、自分の不調を医者に訴え入院させてほしいとも言っていたのに、そのどれもうまくいかなかった。

見てて一番辛く感じたのは、彼女を案じた友人が、オルガをメンタルクリニックに連れていく場面だ。

友人は「この医者は自分の知り合いだから」と言ってオルガを連れていくが、医者は予約もなく連れられてきたオルガを「管轄外だから」とすげなく追い返してしまう。

メンタルが病んでいる時に、医者に真剣に取り扱ってもらえない時の怒りと絶望感は、経験しなければなかなかわからないだろう。この友人は善意の人だったけれど彼女のためにはならず、かえってオルガをひどく傷つける事態に手を貸す結果になった。

彼女のなかで、怒りと絶望の水位が少しずつあがっていくのが画面の外からは見えるのに、彼女の周囲の人にはそれが見えていない。多分、当時彼女の周囲にいた人達も、だいたいが善意の、でも彼女の病や特性に無知で、彼女を「なんとかなおそう」とした人達だったのだと思う。オルガも「なんとかなおろう」として、だけど壊れてしまったように見えた。その壊れ方も、自分と関りのない人達の生命を壊すことで自壊するという最悪の方法で。

「私、オルガ・ヘプナロヴァはあなたたちに死刑を宣告する」

そう、複数の新聞社に犯行声明をおくりつけ、トラックで人々に突っ込み20人を死傷させたオルガは、裁判で死刑を望むと語りながら、処刑直前に取り乱して叫び、泣きながら連行されていった。

彼女の犯行も、処刑も、映画の画面ではエモーショナルにはかかれず抑えた演出だけど、そのストイックな画面が、観客が彼女の人生を悲劇や感傷で消費することを拒んでいる。

だけど、私は観ている間、オルガの孤独、怒りや絶望を「知っている」と思ってしまったし、同時に「彼女の選択は今の私のものではない」とも思った。オルガの怒りも憎悪も絶望も覚えがあるし、彼女の選択が私のものになる可能性だってあった。だけどいつしか、私は自殺や復讐で憤りを消化しないまま、40歳近くまで生き延びている。

自分は何故彼女のようにならなかったのだろう。あるいは、まだなっていないのだろう。考えてみたけれど、はっきりとした答えはわからない。

ただ、私を改心させる何か大きな出来事があったわけではなく、映画に書かれているような、日々の小さな選択、偶然が自分をここまで連れてきているのだ。

だから、オルガのことがわかる気がするのも、知っていると思うのも、私がこの映画とは違うアプローチで彼女について書いたことも、彼女にとって不本意で不敬なことなのだと思う。「どうすればよいのか」と、彼女の周囲にいた人達のように、私も立ち尽くすしかない。悪意があるわけではない、だけど彼女のためにならない人間の1人として、立ち尽くす。

遠い異国ではるか昔、知り合ったこともないけど私に似ていた今は亡き彼女のことを、どうしてこんな風に悼む気持ちで思ってしまうのか。

立ち尽くしたまま、もはや彼女に届かず、彼女のためにもならない言葉をつくしている。

 

『Ja, Olga Hepnarova』(私、オルガ・ヘプナロヴァー)

監督:トマーシュ・バインレプ  ペトル・カズダ
原作:ロマン・ツィーレク
脚本:トマーシュ・バインレプ  ペトル・カズダ

主演:ミハリナ・オルシャンスカ

2016年製作/105分/チェコポーランドスロバキア・フランス合作
原題:Ja, Olga Hepnarova
配給:クレプスキュールフィルム