【映画感想】「私、オルガ・ヘプナロヴァ」@シアターフォーラム【2023.5.5】

昨年、私が脚本を書いたミュージカル『Killer Queens!』で取り上げた、実在したチェコシリアルキラー、オルガ・ヘプナロヴァ。

22歳でトラックによる無差別殺人をおこし、チェコスロヴァキアで最後の女性死刑囚として絞首刑に処された彼女の自伝的映画を、私は作劇中に全編みることがかなわなかったが、今回渋谷シアターフォーラムでの上映があるという情報を得て、ようやく日本語訳で全編を鑑賞することができた。

 

白黒の画像は、言葉少ななオルガの心象風景を思わせる。淡々と、でも少しずつ小さなヒビがはいり、それが繕われないままひろがっていくようにオルガの精神が軋み、真綿で首を絞められるように息苦しさを増していく彼女の日々を、映画は観客のウェットな感情に訴えかけることを排してすすんでいく。

病院での苛めや恋人との破局等の大きな出来事の他にも、人から見ればほんの些細なこと、だけどオルガから見れば、そしてオルガに近い体験や感情を知っている人間からみれば十分に破綻的だと思われる出来事が、感じやすい彼女の生活にはガラスの破片のように散りばめられていく。

家族と愛情や信頼をもって交流できず、病院でいじめにあい、職場にもなじめない。居場所がないオルガは、つねに毛を逆立てている猫のように体を硬直させているが、同時に人との交流を求めてもいる。が、上手でないやり方のせいで、彼女はうまくその関係を続けたり、自分を満たすことができない。

映画を見る時、なんでもかんでも自分に引き寄せてみるのはあまりよい鑑賞の仕方ではないかもしれないけれど、私はこの映画で描かれた「奇妙で不可解」と人からは思われてしまうオルガの行動と、その行動を選択する心の動きの幾つかがわかってしまう気がして、共感性羞恥ならぬ共感性苦痛的な痛みを感じる場面が多々あった。

列に割り込まれるなどのイレギュラーに対応できず、フリーズしてしまって他の人の邪魔になる場面。

運転手としての仕事中に、妊婦さんに「安全運転でね」と言われてもスピードを落とさない場面や、お客様をのせた後に車道をトラックで塞がれて歩道の階段を車で走る場面等、おそらく多くの観客には「オルガは不機嫌で、人間に優しくしたり気遣ったりすることやルールを守ることに興味がないから、そういう行動をとるんだ」と思われるだろう。

だけど、穿った見方かもしれないのは重々承知のうえで、私はオルガの上記の行動の意味がわかる気がするのだ。

妊婦さんに「安全運転でね」と言われてもスピードを落とさないのは、妊婦さんに「スピードを落としてほしい」と言われてないから。オルガは自分の運転スキルに自信があるので、「安全運転でね」と言われても(自分は今安全に運転をしているからOK)という認識でそのまま走ってしまう。

歩道を走ったのも、仕事で乗せたお客様を目的地まで送り届けるためにそうしたのであって、オルガは多分、車で歩道を走るルール違反やお客様の驚きが視野に入っていない。「仕事をちゃんとする=お客様を車で送る」ということに意識が全振りなのだと思う。

当然だが彼女の行動は理解されず、クレームになり、会社から解雇をされてしまう。オルガからすれば、まったく理解も納得も出来なかったはずだ。彼女は彼女なりに仕事を真面目にやっているのだから。

オルガは、時代が少し違えば発達障がいとして診断され、療育を受けられた人なのかもしれない。だけど、そうはならなかった。彼女を気遣う友人もいたし、家族とも絶縁していたわけではない。仕事をして、生きようとしていたし、自分の不調を医者に訴え入院させてほしいとも言っていたのに、そのどれもうまくいかなかった。

見てて一番辛く感じたのは、彼女を案じた友人が、オルガをメンタルクリニックに連れていく場面だ。

友人は「この医者は自分の知り合いだから」と言ってオルガを連れていくが、医者は予約もなく連れられてきたオルガを「管轄外だから」とすげなく追い返してしまう。

メンタルが病んでいる時に、医者に真剣に取り扱ってもらえない時の怒りと絶望感は、経験しなければなかなかわからないだろう。この友人は善意の人だったけれど彼女のためにはならず、かえってオルガをひどく傷つける事態に手を貸す結果になった。

彼女のなかで、怒りと絶望の水位が少しずつあがっていくのが画面の外からは見えるのに、彼女の周囲の人にはそれが見えていない。多分、当時彼女の周囲にいた人達も、だいたいが善意の、でも彼女の病や特性に無知で、彼女を「なんとかなおそう」とした人達だったのだと思う。オルガも「なんとかなおろう」として、だけど壊れてしまったように見えた。その壊れ方も、自分と関りのない人達の生命を壊すことで自壊するという最悪の方法で。

「私、オルガ・ヘプナロヴァはあなたたちに死刑を宣告する」

そう、複数の新聞社に犯行声明をおくりつけ、トラックで人々に突っ込み20人を死傷させたオルガは、裁判で死刑を望むと語りながら、処刑直前に取り乱して叫び、泣きながら連行されていった。

彼女の犯行も、処刑も、映画の画面ではエモーショナルにはかかれず抑えた演出だけど、そのストイックな画面が、観客が彼女の人生を悲劇や感傷で消費することを拒んでいる。

だけど、私は観ている間、オルガの孤独、怒りや絶望を「知っている」と思ってしまったし、同時に「彼女の選択は今の私のものではない」とも思った。オルガの怒りも憎悪も絶望も覚えがあるし、彼女の選択が私のものになる可能性だってあった。だけどいつしか、私は自殺や復讐で憤りを消化しないまま、40歳近くまで生き延びている。

自分は何故彼女のようにならなかったのだろう。あるいは、まだなっていないのだろう。考えてみたけれど、はっきりとした答えはわからない。

ただ、私を改心させる何か大きな出来事があったわけではなく、映画に書かれているような、日々の小さな選択、偶然が自分をここまで連れてきているのだ。

だから、オルガのことがわかる気がするのも、知っていると思うのも、私がこの映画とは違うアプローチで彼女について書いたことも、彼女にとって不本意で不敬なことなのだと思う。「どうすればよいのか」と、彼女の周囲にいた人達のように、私も立ち尽くすしかない。悪意があるわけではない、だけど彼女のためにならない人間の1人として、立ち尽くす。

遠い異国ではるか昔、知り合ったこともないけど私に似ていた今は亡き彼女のことを、どうしてこんな風に悼む気持ちで思ってしまうのか。

立ち尽くしたまま、もはや彼女に届かず、彼女のためにもならない言葉をつくしている。

 

『Ja, Olga Hepnarova』(私、オルガ・ヘプナロヴァー)

監督:トマーシュ・バインレプ  ペトル・カズダ
原作:ロマン・ツィーレク
脚本:トマーシュ・バインレプ  ペトル・カズダ

主演:ミハリナ・オルシャンスカ

2016年製作/105分/チェコポーランドスロバキア・フランス合作
原題:Ja, Olga Hepnarova
配給:クレプスキュールフィルム

とっくにともに生きている

先日、私が書いた脚本『A home at the end of this world.』が、かながわ短編演劇アワード2022の戯曲コンペティション部門で最終候補作となり、大賞を決める公開審査会に出席してまいりました。
結果は残念ながら大賞ならずでしたが、こうした審査会でなければ出会えなかった方々から、自分の戯曲にたくさんの言葉を頂けたのはすごい体験でした。
ちょっと時間が経ってしまいましたが、いつかの自分のためにも、審査会や自分の戯曲について、つらつら振り返ってみたいと思います。

自分の作品の公開審査会に参加するのは、昨年のAAF戯曲賞の公開審査会に参加して以来2度目です。
が、2度目とはいえ、余裕なんて全然ありません。

実はAAF戯曲賞の時はビビりすぎて友人に泣きつき、愛知県の会場までついてきてもらっていたのですが、さすがにそう何度も泣きつくのは大人として、作家としてあれだろうと思い、今回は特に誰にも同行を求めず、1人で審査会に参加することにしました。

審査会当日。灰色の曇り空の下のKAATが、いつもより厳めしく私の前に立ちはだかります。
発達障害ゆえの特性で日常生活に困難があるので、普段から精神安定剤やら何やらを常用しているのですが、審査会に挑むにあたり、朝からすでに多めに飲んでいた薬、ここでさらに追加しました。迎え酒ならぬ迎え薬(ヤク)です。セロトニンの分泌を助けてもらわなくては公開で審査を受けるなんて耐えられません。
いざ鎌倉、いざKAATです。

が、KAATに到着したあたりから、審査が始まってもいないのに、すでに私には暗雲が立ち込めていました。
薬を多めに飲んだうえに、激しく緊張していたせいでしょうか。
いつもならそんなことないのに、急激に下り始めたのです。私のテンション、そして胃腸が…。

例えるならそう、自分の内臓で開催される、奥入瀬川の川下り。
こちとら全然レジャー気分ではないのに、内臓が絶賛アトラクション中。

審査会前に、危機クライマックスです。

とにかく会場には入ろうと入口で名前を告げ、席に案内してもらう間にもいやます腹痛。
ちなみにその時、1次審査を担当していた友人のオノマリコさんとすれ違い「ワカヌちゃん、今回はやけに凛々しく会場入りしてるなって思った」と後から言われたのですが、その凛々しさは審査会に挑む覚悟を決めてたからではなく、しもい話で恐縮ですが括約筋をしめてたからです。

席を確保したのち速攻でお手洗いに駆け込んで最悪の事態は免れたものの、まさか審査会が始まる前にこんな修羅場を迎えるとは思わず、始まる前から半泣き。
ギリギリで審査会開始前に席に戻れましたが、もうこの時点で口から魂が半分でてました。
さらに席に戻ってみたら、真正面に作品名と作家名が書かれたホワイトボードの点数表が…! 
怖すぎて一瞬気絶。

が、審査会が始まるまでに一通りの修羅場を潜り抜けたせいか、薬が腹じゃなく脳に効いてきてくれたのか、始まってからは逆に落ち着いてきて、講評を聞いたりメモする余裕も出てきました。

審査会で私の作品の審査の順番が来た時、それぞれの審査員の方々から色んな言葉をもらいました。
気づきや振り返りのきっかけになったり、シンプルにとても嬉しくて胸に抱いていたい言葉だったり、言われて気づく反省点だったり、自分でも意識していなかった戯曲の構造に気づかせてもらうものだったり…。どれもしっかり消化して、これからの自分の言葉の血肉にしていきたいなと思います。

ですが、うまく飲み込めなかった言葉もあります。「他者性が見えない」という言葉です。

今回最終候補に残った私の脚本『A home at the end of this world.』は、げろことぷりん、という二十歳くらいの女性の2人芝居です。
げろこは元不登校で、高校中退の後、高卒認定試験を受けて大学受験中。ぷりんは親からのDV避難中で、生活保護を受給しています。

かながわ短編演劇アワード2022の募集テーマは「ともに生きる~多様性の時代に生きるということ~」でしたが、私は以前からずっと、この脚本に登場するげろこやぷりんのように生きている人たちは、そもそも「とっくにともに生きている」にも関わらず、そのことをあまりよく知られていないし、見られていないなと感じています。
貧困、機能不全家庭、障がいや病気等等いろんなラベルがありますが、今の社会の仕組みのなかで「規格外」とされてしまう人達は、どうやらとても見えづらい。
見えづらいから、考える頭や感じる心ももっていないように思われてしまうし、殴られたり傷つけられたり差別されていたり、あるいは泣いたり叫んだりしてるのを見せてもらわなくては「そういう人達がいること」が伝わらないと言われてしまう。

でも現実では、げろこやぷりんのような人は、いわゆる困難を抱えたマイノリティとされる人達は、泣いたり叫んだり、なかなか出来ないし、しないし、誰にも見られないところで殴られたり傷つけられたりしている。
「そういうことを見せてくれなきゃわからない」と言う、げろこやぷりんが見えない人達のために、傷つけられるマイノリティを舞台の上にのっけるのは嫌だと私は思っているのです。


「他者性が見えない」という時に人は自分を、げろこやぷりんのような立場の人達を「見る側」「ジャッジする側」にごく自然においているのだと思います。
ですが、ごく当たり前に自分をジャッジする側における人達こそ、げろこやぷりんから見れば圧倒的他者であり脅威であり、げろこやぷりんは常にその脅威と対峙して生きていかなくてはいけない場所にいる。


「他者性が見えない」という言葉には、「それとわかるように困難を見せてもらわなくては」という枕詞がつくように私には思えましたし、それは、とっくの昔にともに生きている人たちを透明にし、分断してきた言葉に聞こえました。

この脚本自体はフィクションですが、安心してステイホーム出来なかったり、コロナと関係なく、コロナの最中にも様々な困難に遭っているげろこやぷりんのような人たちは皆現実に存在していて、今もそれぞれ自分の人生を懸命に生きています。
朝起きたり、学校や仕事に行ったり行けなかったり、推しの舞台やライヴを楽しみにしたり、YouTubeをだらだら見てしまったり、眠れない夜があったり明日に希望をもったりしながら、今も多くの人達と同じ地平で生活しています。
そして、どうしてこんな風に生きているのかわからない自分の人生を、どうにか愛そうとして生きているのだと思っています。

この脚本を書かせてくれた、私と関ったり話をしてくれた人たちに感謝します。
脚本化の過程で、いつも正しい振る舞いが出来ていたわけじゃない自分、うまくあなたを尊重できないことがあった自分を申し訳なく思います。

自分からは見えない人達が、すでにこの世界に在って共に生きているということを眼差すことは困難ですが、あなた達と私達が、私達とあなた達が共に生きるのはそれから。
まだ全然これからなのだと思います。

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私と幻聴さん。

※この記事内には、幻聴や希死念慮等の記述があり、全体的に沈んだトーンです。心身の健康が優れない方は閲覧ご注意ください。

 

 

以前、何かの機会に過去の日記を見返したら、1年12カ月中、8カ月間体調を崩していて、チーン…という気持ちになったことがある。

私は体が弱い。ついでにメンタルも弱い。

季節の変わり目で病み、長雨続きで病み、障がい特性のこだわりが消化出来なくて病み、こだわりを消化するために病み、週5で働いて病み、働けない自分に病み、世の中の悲惨なニュースに病み、超絶ささいな個人的な問題でも病む。

毎年、4月から6月、さらに最近は梅雨が遅れがちなので7月にかけては、季節の変わり目にプラスして梅雨時でもあるので、私にとっては絶賛「地球に殺されにかかる月間」だ。アフリカとかの地域には雨季や乾季といった季節の区切りがあるけれど、私の1年には病み季と小康季があり、断然病み季のほうが長い。

さらに、病み季以外もほとんどの時期はあくまで小康季であり、健康!元気ハツラツ!という時期でもないのである。

以前は小康季の自分を健康でニュートラルだと思っていたが、最近それもちょっと違うんじゃないかと思い直した。

何故なら私の日常には、病み季も小康季にも変わらず幻聴があるのだが、世の中の大抵の健康な人の日常には、幻聴はないらしいからである。

知識としては、「幻聴さん」は誰にでもいるわけではないことを知っていた。

でもそれが知識というだけじゃなく、腑に落ちだしたのはわりと最近だ。手には持っていたけれど、ずっと食べてなかった知恵の実を齧ってみて少しずつ消化している、そんな感じで、私は私以外の、多くの人の生きる現実を理解しはじめている。

大抵の人の日常に「幻聴さん」はいない。

 

「幻聴さん」がいつからいたのか、はっきりとした時期は覚えていないけれど、わりと昔から、学生の頃から私の頭のなかにいた。「幻聴さん」は、普段は低い声でなにかを呟いていたり、ラジオやテレビ画面が砂嵐になった時のような音をだしていたり、不意に私に脈絡のないことを話しかけてきたりする。ただ、こういう害のない感じなのは小康季の「幻聴さん」で、私の心身の調子が落ち始めるのと反比例するように、頭のなかの「幻聴さん」は力が強くなり、声も大きく、大抵の場合狂暴になっていく。

そういう時、いつも訪ねてくるのが、私の右の側頭部に席のある「幻聴さん」で、私は彼女のことを便宜上「トモダチ」と呼んでいる。

その他、幻聴にも「ラジオ」「金切声」「DJ」等のレギュラー陣というのが幾つかいて、だいたいは私の病み季に元気に活動をしはじめる。

彼らは私の頭のなかで叫び、色んなラジオのチャンネルを大音量でかけ、昔言われて嫌だった言葉などをスクラッチ風に繰り返し、トモダチは私に「死ね」と言ってくる。

以前ある戯曲に「私は毎日、死ねって言われる」と書いたが、それは心身の調子が落ちている時の私の、まぎれもない現実であり日常だ。

発達障がいのある人のなかには、二次障がいとして鬱等の精神疾患を煩っている人も多い。発達障がいの特性ゆえに、人間関係や現状の社会システムのなかでつまずく機会が多く、自己肯定感やメンタルの安定を保つことが難しいのも、その原因の一つだというし、私もその点は思い当たる節がありすぎる。(勿論、発達障がい者と一口に言っても、それぞれ性格も特性も環境も異なるので一概には言えないが)

だから、私の「幻聴さん」、その声や音も精神疾患によるもので、要するにステータス異常だと知識としてはわかっているつもりなのだけど、それは齧らないまま手に持っている果実のように、ただ知識としてあるだけで、彼らと共にある自分のリアルな日常が虚構であることを、私は自分のなかで消化しきれていない。

もちろんこのままでいいとも思っていなくて、色んな病院で相談したりもしているのだけれど、精神疾患持ちの発達障がい者を診てくれる病院は意外と少ない。

初診の予約をして、何か月も待って、何枚ものアンケートやらに答を記入し、自分の困りごとを診察の時にきちんと伝えられるように紙に書きだして準備をしていったところで「うーん、あなたの場合は重すぎてうちでは見れないねえ。発達障がいのある人のカウンセリングって難しいんですよー」とか言われて紹介状も何もなしに帰されたりすると、嫌でも医者と病院と世の中へのヘイトが募り、「幻聴さん」は狂暴になる。

 

心身ともにひどく落ち込んでいる時の私の頭のなかでは、知らない女性が金切声をあげ、大音量で様々なチャンネルのラジオ放送が流れているのでそれぞれが何を放送しているか聞き取れず、騒音のダンスフロアでDJが嫌な言葉をスクラッチし続け、トモダチが右の側頭部から「バカ、馬鹿が、お前は〇〇〇して死ぬんだよ、馬鹿が」「ワタシだけだよ、ワタシだけ」「死ねばいいんだよ、死ねばねえ、ぜーんぶわかるんだよ、わかるの。世界のねえ、本当のうつくしさがねえ」「壁の中をサメが泳いでいるよ」等々と話しかけ続けてくる。

 

こうしてブログを書いている今から少し前まで、長雨と環境の変化が重なり、気圧による頭痛やら不眠やら「幻聴さん」やらで毎日が本当に辛く、胸に膝をいれられながら首をしめられている感じだった。

それが、晴れ間がでるようになってからは、頭痛が消え、「幻聴さん」達の声も小さくなり、トモダチも消えて大分楽になった。あんなに深刻だった体と心の状態が、お天気が変わるだけででこんなに落ち着くなんて、人体とはこんなに単純なものなのかと拍子抜けしてしまう。だけど、私の頭は今もこの世には存在しないはずの「幻聴さん」を創りだしているのだから、人体ってやはり複雑怪奇だとも思う。

「幻聴さん」は私の頭のなかでざわついている。ぶつぶつと、聞き取れないくらいの低い声で私に囁き続けている。それは私にはなじみ深い声で、例えるなら、海辺に住む人が波の音に慣れるのと同じような感じだ。調子がよければ意識しないですむくらい当たり前のことで、むしろ落ち着くし共存も出来ている。だけどひとたび私が調子を崩すと、「幻聴さん」は強力な希死念慮となって私を殺しにかかってくる。

 

そんなステータス異常がデフォルトになってしまっている現状でも、私は生きているし、ちゃんと食べたり寝たり、最低限の衛生を保ったり買い物したり、時にはパキシルをアルコールでODしてから仕事に行って、笑顔で接客したりしている日もある。

基本的には、自分が生きていることを気に入っているし、愛着をもっていると思う。

でもどんな方法でもいいから楽になりたいと願って叶わない夜の方が、生きていることを愛している時間よりも長い。

そんな自分を「幻聴さん」込みで、ステータス異常がノーマルなこともあわせて愛せたらいいのだとはわかっているけれど、なかなかそういう風にはなれないし、その境地に至れなくて苦しむ自分のことも嫌になる。生きてるだけでいいのだと言ってくれる友達がいる時に、なぜ友達の言葉を信じて変わることが出来ないのだろうと思うと苦しくなる。

 

昔の日記に「一生苦しむことと、生きている1日1日を幸せに過ごすことは両立できる」的なことが書いてあった。多分、これを書いた時の自分は小康季だったんだろう。

自分はいつまで、こんな風に苦しむことの先へ希望をもっていられるのかと、最近よく考えている。考えながら、脚本を書き、やりたい演劇の企画を考え、部屋の改造計画を練り、今度の休みの日には上島珈琲店でケーキと黒糖ミルクコーヒーを飲みたいということも考えている私の頭のなかで、「幻聴さん」はやっぱりぶつぶつと何かを呟いている。それは私がこんな風に生きている意味についてかもしれないし、意味の通らない独り言かもしれない。

【リバイバル・50日目】2分の芝居を1日1本、50本書いていく『コクーン』【#てれアクト】

家で1人で、誰でも演じることが出来て、スマホがあれば撮影も配信もできる、2分20秒以内の1人芝居企画「てれアクト ~workfromhomeactors~」} そんな「てれアクト」のための脚本を、2020年5月7日から1日1本、50日連続で50本書いていました。 ただいま、1周年を記念してのリバイバル投稿中です。

最終日、50日目の脚本は無料サンプルとして公開致します。

 

50日目
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コクーン

〇登場人物
 ずっと部屋から出れない人物

 

人物 緊急事態宣言がでるずっと前から、自分の部屋から出ることができません。都内の駅近のマンションに家族と住んでいて、昼間は寝て、夜は窓を開けてラジオを聞いたり動画を見たりして過ごす生活をしています。

 

人物 部屋の窓からはいつも、日付が変わってもしばらくは明るい駅が見えて、駅前を行き来する人が見えて、24時間営業のファミリーレストランやコンビニの明かりが見えていました。だけど4月くらいから、レストランは夜の10時で閉店になって、コンビニや駅は明るくても、行き来する人があんまり見えなくなった。

 

人物 5月19日の深夜、マンションの部屋を出て、いつも上から見ていたコンビニに行きました。店には店員さんしかいなくて、自分は多分、その店員さんが明け方、ゴミ箱の袋を変えるところを何度も見ているのだけれど、顔も名前も性別も知らなかったその店員さんは「吉野さん」という人でした。税込108円のアイスを買ってレジに持っていったら「温めますか?」って聞かれて、なんかつい反射で「はい」って言っちゃったんですけど。吉野さんがすぐ気づいて「あ、すみません」って言って笑って、それに自分も笑って。それで、入った時は何も言われなかったんですけど、コンビニを出る時には「ありがとうございました。またお待ちしておりまーす」って言われて。ああ、コンビニってこんな感じだったなあ、なんてことを思い出していたら、空が明るくなってくるのを見ました。私がいつもマンションの部屋の窓から見ていた駅や駅前のロータリーには、まだ全然人がいなくて。ああ、こんな空白がある世界なら、自分は安心して外に出れる。そう思った。

 

人物 それからしばらくしたら、駅前の人通りは元に戻ったけれど、ファミリーレストランは夜22時までしか開かなくなって、明かりで埋められる景色が、少しだけ変わりました。

 

人物 自分がコンビニに出かけた夜のことを思い出します。世界全部が自分と一緒に夢うつつだったようなあの時間。またお待ちしてますって言われたことを、今も手のひらで握っているような気がします。また明日会えばいいとか、また明日やればいいとか。それは絶対のない約束で、夢のようなものかもしれないけれど。安全でも安心でもない海を泳ぐようにして、自分達が世界中でそういう夢を生きていることを思います。

                                     了
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PDF脚本はこちらから
㊿コクーン.pdf - Google ドライブ

 

劇作家モスクワカヌ、自分の生存戦略のために脚本を書いてみるプロジェクト

てれアクト
~work from home actors~

■てれアクトとは
家で1人で誰でも演じることが出来て、スマホがあれば撮影も配信もできる、2分20秒以内の1人芝居の企画名。

■モスクワカヌが挑戦すること
・「てれアクト」用の2分20秒以内の1人芝居を50本書く
・毎日1本、無料もしくは有料の脚本を公開していく
・2020年3月以降の日本で暮らす人々のことを書く

■脚本利用について
noteにてご購入いただいた脚本は、ご購入者様自身での上演・配信にご利用いただけます。(サンプルとして無料公開している脚本はどなたでもご利用いただけます。)この企画に関しては、モスクワカヌへの上演許可の申請は必要ありません。
また配信の際には「#てれアクト」「#workfromhomeactors」のハッシュタグをつけて頂けますと幸いです。(見つけるため)

著作権について
このnoteで公開している作品の著作権者はモスクワカヌになります。
許可のない改変、剽窃、盗用はされませんようお願いいたします。


 

 

 

 

 

【リバイバル・49日目】2分の芝居を1日1本、50本書いていく『緊急事態宣言中のラブホテル』【#てれアクト】

家で1人で、誰でも演じることが出来て、スマホがあれば撮影も配信もできる、2分20秒以内の1人芝居企画「てれアクト ~workfromhomeactors~」} そんな「てれアクト」のための脚本を、2020年5月7日から1日1本、50日連続で50本書いていました。 ただいま、1周年を記念してのリバイバル投稿中です。

49日目の脚本は無料サンプルとして公開致します。

 

49日目
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緊急事態宣言中のラブホテル

〇登場人物
 ラブホでバイトをしている人物(性別問わず)


バイト 自分、都内のラブホテルでバイトしてるんですけど、で、自粛期間中も普通にあいてたんですけど。まあやっぱ客少ないんですけど、やたらパソコンらしきものを持ったお一人様客が多くて。で、なんでですかねーって先輩に聞いたら、なんか、外出自粛で会えなくなったカップルが、ラブホテルきてリモートセックスするの、ちょい流行ってるらしくて。

バイト あの、ラブホテルってだいたいWi-Fi使えるんで、うちもフリーなWi-Fiいれてるんで。それで、お互いラブホにパソコン持ち込んで、時間決めてZOOMとか入って、で、お互いの動画見ながら…っていう。いやもうそれラブホで待ち合わせればよくね? って思うんですけれど。家出てるし、たぶん電車とか乗ってきてるし。でも一応まあ密は避けてるみたいな。

バイト いや、バイトしてるのにこんなこと言うのあれなんですけど、わざわざここまで来てリモートしなくても? みたいな。なんか自宅で出来る仕事をわざわざスタバでやる、みたいな? セックスもノマドか、みたいな? まあ先輩いわく、どちらかが実家住みだと、家じゃ出来ないからって理由もあるらしいんですけど。でもそれならビジネスホテルとかのほうが安くないか?

バイト 自分、恋人とかいないし、無理して会いたい人もいないんで、バイトして帰って飯食って寝て、ヒマこいたらスマホ見て、みたいな感じで全然いいから、自粛とかなんとか言って生活そんな変わってないんですけど。

バイト なんか皆、頑張るんですね、人と会うのに。

バイト まあ、客は来る方がいいし、別に自分とは関係ないんでいいんですけど、悪いけどちょっと笑っちゃいます。

                                 了
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PDF脚本はこちらから
㊾緊急事態宣言中のラブホテル.pdf - Google ドライブ

 

劇作家モスクワカヌ、自分の生存戦略のために脚本を書いてみるプロジェクト

てれアクト
~work from home actors~

■てれアクトとは
家で1人で誰でも演じることが出来て、スマホがあれば撮影も配信もできる、2分20秒以内の1人芝居の企画名。

■モスクワカヌが挑戦すること
・「てれアクト」用の2分20秒以内の1人芝居を50本書く
・毎日1本、無料もしくは有料の脚本を公開していく
・2020年3月以降の日本で暮らす人々のことを書く

■脚本利用について
noteにてご購入いただいた脚本は、ご購入者様自身での上演・配信にご利用いただけます。(サンプルとして無料公開している脚本はどなたでもご利用いただけます。)この企画に関しては、モスクワカヌへの上演許可の申請は必要ありません。
また配信の際には「#てれアクト」「#workfromhomeactors」のハッシュタグをつけて頂けますと幸いです。(見つけるため)

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このnoteで公開している作品の著作権者はモスクワカヌになります。
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【リバイバル・48日目】2分の芝居を1日1本、50本書いていく 『喫茶エトランゼ、閉店のお知らせ』【#てれアクト】

家で1人で、誰でも演じることが出来て、スマホがあれば撮影も配信もできる、2分20秒以内の1人芝居企画「てれアクト ~workfromhomeactors~」} そんな「てれアクト」のための脚本を、2020年5月7日から1日1本、50日連続で50本書いていました。 ただいま、1周年を記念してのリバイバル投稿中です。
48日目の脚本は無料サンプルとして公開致します。

 

48日目
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喫茶エトランゼ、閉店のお知らせ

〇登場人物
 インターネットで好きだったお店の閉店を知った人物(性別問わず)


人物 ツイッターを見てたら、好きだったお店の閉店のお知らせがリツイートで流れてきました。ドアの前の張り紙を、誰かが写真にとってあげたツイートでした。

   

   人物、ツイッターの画像にのっている

   閉店のお知らせの張り紙を読む

 

人物 「喫茶エトランゼを愛してくださったお客様方へ。3月末より自主休業を続けてまいりましたが、この度閉店する運びとなりました。この地で数十年にわたりご愛顧を頂きながら、最後のご挨拶もできず皆様には大変申し訳なく存じます。私事ですが、この店は私の祖父母が、青森から駆け落ちしてきて開いたカフェです。エトランゼという店名は、ハイカラだった祖母が、知り合いの一人もいない地へ出奔してきた自分たちにあやかり、どのようなお客様でも受け入れられるような、そういうカフェにしたくて命名したのだと祖父から聞いております。おかげさまで愛される老舗としてたびたびご紹介に預かり、地元の方だけでなく、遠方から来られるお役様にも可愛がっていただきましたが、個人経営の小さな喫茶店には、この度の試練は背負うのが厳しく、誠に勝手ながら閉店を決意いたしました。戦中の休業からも復活したこの店を続けられないのは、ひとえに店主である私の力不足です。引き取り先を見つけられなかった店のカウンター、椅子、テーブル、照明も、全て綺麗に拭いてお別れをしました。亡くなった祖父母、引退した両親をはじめ、仕入れ先の業者様、親子2代、3代で常連になってくださった方々にも、本当に申し訳なく、言葉にできない気持ちでいっぱいです。最後になりますが、皆様のご多幸をお祈りいたします。さようなら。また私事で恐縮ですが、私はこの店を、店と共にある日々を愛していました。喫茶エトランゼ 店主より」

   

   人物、ツイッターに書き込む

 

人物 「お疲れ様です。今までありがとうございました。」

 

人物 こんな風に引用リツイートしても、SNSとかやってなさそうな店主に届くとは思いません。だけど。

   

   人物、ツイートに追加で書き込む

 

人物 「さようなら、好きでした」


                                       了
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PDF脚本はこちらから
㊽喫茶エトランゼ、閉店のお知らせ.pdf - Google ドライブ

劇作家モスクワカヌ、自分の生存戦略のために脚本を書いてみるプロジェクト

てれアクト
~work from home actors~

■てれアクトとは
家で1人で誰でも演じることが出来て、スマホがあれば撮影も配信もできる、2分20秒以内の1人芝居の企画名。

■モスクワカヌが挑戦すること
・「てれアクト」用の2分20秒以内の1人芝居を50本書く
・毎日1本、無料もしくは有料の脚本を公開していく
・2020年3月以降の日本で暮らす人々のことを書く

■脚本利用について
noteにてご購入いただいた脚本は、ご購入者様自身での上演・配信にご利用いただけます。(サンプルとして無料公開している脚本はどなたでもご利用いただけます。)この企画に関しては、モスクワカヌへの上演許可の申請は必要ありません。
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