私と幻聴さん。

この記事をシェアする

※この記事内には、幻聴や希死念慮等の記述があり、全体的に沈んだトーンです。心身の健康が優れない方は閲覧ご注意ください。

 

 

以前、何かの機会に過去の日記を見返したら、1年12カ月中、8カ月間体調を崩していて、チーン…という気持ちになったことがある。

私は体が弱い。ついでにメンタルも弱い。

季節の変わり目で病み、長雨続きで病み、障がい特性のこだわりが消化出来なくて病み、こだわりを消化するために病み、週5で働いて病み、働けない自分に病み、世の中の悲惨なニュースに病み、超絶ささいな個人的な問題でも病む。

毎年、4月から6月、さらに最近は梅雨が遅れがちなので7月にかけては、季節の変わり目にプラスして梅雨時でもあるので、私にとっては絶賛「地球に殺されにかかる月間」だ。アフリカとかの地域には雨季や乾季といった季節の区切りがあるけれど、私の1年には病み季と小康季があり、断然病み季のほうが長い。

さらに、病み季以外もほとんどの時期はあくまで小康季であり、健康!元気ハツラツ!という時期でもないのである。

以前は小康季の自分を健康でニュートラルだと思っていたが、最近それもちょっと違うんじゃないかと思い直した。

何故なら私の日常には、病み季も小康季にも変わらず幻聴があるのだが、世の中の大抵の健康な人の日常には、幻聴はないらしいからである。

知識としては、「幻聴さん」は誰にでもいるわけではないことを知っていた。

でもそれが知識というだけじゃなく、腑に落ちだしたのはわりと最近だ。手には持っていたけれど、ずっと食べてなかった知恵の実を齧ってみて少しずつ消化している、そんな感じで、私は私以外の、多くの人の生きる現実を理解しはじめている。

大抵の人の日常に「幻聴さん」はいない。

 

「幻聴さん」がいつからいたのか、はっきりとした時期は覚えていないけれど、わりと昔から、学生の頃から私の頭のなかにいた。「幻聴さん」は、普段は低い声でなにかを呟いていたり、ラジオやテレビ画面が砂嵐になった時のような音をだしていたり、不意に私に脈絡のないことを話しかけてきたりする。ただ、こういう害のない感じなのは小康季の「幻聴さん」で、私の心身の調子が落ち始めるのと反比例するように、頭のなかの「幻聴さん」は力が強くなり、声も大きく、大抵の場合狂暴になっていく。

そういう時、いつも訪ねてくるのが、私の右の側頭部に席のある「幻聴さん」で、私は彼女のことを便宜上「トモダチ」と呼んでいる。

その他、幻聴にも「ラジオ」「金切声」「DJ」等のレギュラー陣というのが幾つかいて、だいたいは私の病み季に元気に活動をしはじめる。

彼らは私の頭のなかで叫び、色んなラジオのチャンネルを大音量でかけ、昔言われて嫌だった言葉などをスクラッチ風に繰り返し、トモダチは私に「死ね」と言ってくる。

以前ある戯曲に「私は毎日、死ねって言われる」と書いたが、それは心身の調子が落ちている時の私の、まぎれもない現実であり日常だ。

発達障がいのある人のなかには、二次障がいとして鬱等の精神疾患を煩っている人も多い。発達障がいの特性ゆえに、人間関係や現状の社会システムのなかでつまずく機会が多く、自己肯定感やメンタルの安定を保つことが難しいのも、その原因の一つだというし、私もその点は思い当たる節がありすぎる。(勿論、発達障がい者と一口に言っても、それぞれ性格も特性も環境も異なるので一概には言えないが)

だから、私の「幻聴さん」、その声や音も精神疾患によるもので、要するにステータス異常だと知識としてはわかっているつもりなのだけど、それは齧らないまま手に持っている果実のように、ただ知識としてあるだけで、彼らと共にある自分のリアルな日常が虚構であることを、私は自分のなかで消化しきれていない。

もちろんこのままでいいとも思っていなくて、色んな病院で相談したりもしているのだけれど、精神疾患持ちの発達障がい者を診てくれる病院は意外と少ない。

初診の予約をして、何か月も待って、何枚ものアンケートやらに答を記入し、自分の困りごとを診察の時にきちんと伝えられるように紙に書きだして準備をしていったところで「うーん、あなたの場合は重すぎてうちでは見れないねえ。発達障がいのある人のカウンセリングって難しいんですよー」とか言われて紹介状も何もなしに帰されたりすると、嫌でも医者と病院と世の中へのヘイトが募り、「幻聴さん」は狂暴になる。

 

心身ともにひどく落ち込んでいる時の私の頭のなかでは、知らない女性が金切声をあげ、大音量で様々なチャンネルのラジオ放送が流れているのでそれぞれが何を放送しているか聞き取れず、騒音のダンスフロアでDJが嫌な言葉をスクラッチし続け、トモダチが右の側頭部から「バカ、馬鹿が、お前は〇〇〇して死ぬんだよ、馬鹿が」「ワタシだけだよ、ワタシだけ」「死ねばいいんだよ、死ねばねえ、ぜーんぶわかるんだよ、わかるの。世界のねえ、本当のうつくしさがねえ」「壁の中をサメが泳いでいるよ」等々と話しかけ続けてくる。

 

こうしてブログを書いている今から少し前まで、長雨と環境の変化が重なり、気圧による頭痛やら不眠やら「幻聴さん」やらで毎日が本当に辛く、胸に膝をいれられながら首をしめられている感じだった。

それが、晴れ間がでるようになってからは、頭痛が消え、「幻聴さん」達の声も小さくなり、トモダチも消えて大分楽になった。あんなに深刻だった体と心の状態が、お天気が変わるだけででこんなに落ち着くなんて、人体とはこんなに単純なものなのかと拍子抜けしてしまう。だけど、私の頭は今もこの世には存在しないはずの「幻聴さん」を創りだしているのだから、人体ってやはり複雑怪奇だとも思う。

「幻聴さん」は私の頭のなかでざわついている。ぶつぶつと、聞き取れないくらいの低い声で私に囁き続けている。それは私にはなじみ深い声で、例えるなら、海辺に住む人が波の音に慣れるのと同じような感じだ。調子がよければ意識しないですむくらい当たり前のことで、むしろ落ち着くし共存も出来ている。だけどひとたび私が調子を崩すと、「幻聴さん」は強力な希死念慮となって私を殺しにかかってくる。

 

そんなステータス異常がデフォルトになってしまっている現状でも、私は生きているし、ちゃんと食べたり寝たり、最低限の衛生を保ったり買い物したり、時にはパキシルをアルコールでODしてから仕事に行って、笑顔で接客したりしている日もある。

基本的には、自分が生きていることを気に入っているし、愛着をもっていると思う。

でもどんな方法でもいいから楽になりたいと願って叶わない夜の方が、生きていることを愛している時間よりも長い。

そんな自分を「幻聴さん」込みで、ステータス異常がノーマルなこともあわせて愛せたらいいのだとはわかっているけれど、なかなかそういう風にはなれないし、その境地に至れなくて苦しむ自分のことも嫌になる。生きてるだけでいいのだと言ってくれる友達がいる時に、なぜ友達の言葉を信じて変わることが出来ないのだろうと思うと苦しくなる。

 

昔の日記に「一生苦しむことと、生きている1日1日を幸せに過ごすことは両立できる」的なことが書いてあった。多分、これを書いた時の自分は小康季だったんだろう。

自分はいつまで、こんな風に苦しむことの先へ希望をもっていられるのかと、最近よく考えている。考えながら、脚本を書き、やりたい演劇の企画を考え、部屋の改造計画を練り、今度の休みの日には上島珈琲店でケーキと黒糖ミルクコーヒーを飲みたいということも考えている私の頭のなかで、「幻聴さん」はやっぱりぶつぶつと何かを呟いている。それは私がこんな風に生きている意味についてかもしれないし、意味の通らない独り言かもしれない。