とっくにともに生きている

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先日、私が書いた脚本『A home at the end of this world.』が、かながわ短編演劇アワード2022の戯曲コンペティション部門で最終候補作となり、大賞を決める公開審査会に出席してまいりました。
結果は残念ながら大賞ならずでしたが、こうした審査会でなければ出会えなかった方々から、自分の戯曲にたくさんの言葉を頂けたのはすごい体験でした。
ちょっと時間が経ってしまいましたが、いつかの自分のためにも、審査会や自分の戯曲について、つらつら振り返ってみたいと思います。

自分の作品の公開審査会に参加するのは、昨年のAAF戯曲賞の公開審査会に参加して以来2度目です。
が、2度目とはいえ、余裕なんて全然ありません。

実はAAF戯曲賞の時はビビりすぎて友人に泣きつき、愛知県の会場までついてきてもらっていたのですが、さすがにそう何度も泣きつくのは大人として、作家としてあれだろうと思い、今回は特に誰にも同行を求めず、1人で審査会に参加することにしました。

審査会当日。灰色の曇り空の下のKAATが、いつもより厳めしく私の前に立ちはだかります。
発達障害ゆえの特性で日常生活に困難があるので、普段から精神安定剤やら何やらを常用しているのですが、審査会に挑むにあたり、朝からすでに多めに飲んでいた薬、ここでさらに追加しました。迎え酒ならぬ迎え薬(ヤク)です。セロトニンの分泌を助けてもらわなくては公開で審査を受けるなんて耐えられません。
いざ鎌倉、いざKAATです。

が、KAATに到着したあたりから、審査が始まってもいないのに、すでに私には暗雲が立ち込めていました。
薬を多めに飲んだうえに、激しく緊張していたせいでしょうか。
いつもならそんなことないのに、急激に下り始めたのです。私のテンション、そして胃腸が…。

例えるならそう、自分の内臓で開催される、奥入瀬川の川下り。
こちとら全然レジャー気分ではないのに、内臓が絶賛アトラクション中。

審査会前に、危機クライマックスです。

とにかく会場には入ろうと入口で名前を告げ、席に案内してもらう間にもいやます腹痛。
ちなみにその時、1次審査を担当していた友人のオノマリコさんとすれ違い「ワカヌちゃん、今回はやけに凛々しく会場入りしてるなって思った」と後から言われたのですが、その凛々しさは審査会に挑む覚悟を決めてたからではなく、しもい話で恐縮ですが括約筋をしめてたからです。

席を確保したのち速攻でお手洗いに駆け込んで最悪の事態は免れたものの、まさか審査会が始まる前にこんな修羅場を迎えるとは思わず、始まる前から半泣き。
ギリギリで審査会開始前に席に戻れましたが、もうこの時点で口から魂が半分でてました。
さらに席に戻ってみたら、真正面に作品名と作家名が書かれたホワイトボードの点数表が…! 
怖すぎて一瞬気絶。

が、審査会が始まるまでに一通りの修羅場を潜り抜けたせいか、薬が腹じゃなく脳に効いてきてくれたのか、始まってからは逆に落ち着いてきて、講評を聞いたりメモする余裕も出てきました。

審査会で私の作品の審査の順番が来た時、それぞれの審査員の方々から色んな言葉をもらいました。
気づきや振り返りのきっかけになったり、シンプルにとても嬉しくて胸に抱いていたい言葉だったり、言われて気づく反省点だったり、自分でも意識していなかった戯曲の構造に気づかせてもらうものだったり…。どれもしっかり消化して、これからの自分の言葉の血肉にしていきたいなと思います。

ですが、うまく飲み込めなかった言葉もあります。「他者性が見えない」という言葉です。

今回最終候補に残った私の脚本『A home at the end of this world.』は、げろことぷりん、という二十歳くらいの女性の2人芝居です。
げろこは元不登校で、高校中退の後、高卒認定試験を受けて大学受験中。ぷりんは親からのDV避難中で、生活保護を受給しています。

かながわ短編演劇アワード2022の募集テーマは「ともに生きる~多様性の時代に生きるということ~」でしたが、私は以前からずっと、この脚本に登場するげろこやぷりんのように生きている人たちは、そもそも「とっくにともに生きている」にも関わらず、そのことをあまりよく知られていないし、見られていないなと感じています。
貧困、機能不全家庭、障がいや病気等等いろんなラベルがありますが、今の社会の仕組みのなかで「規格外」とされてしまう人達は、どうやらとても見えづらい。
見えづらいから、考える頭や感じる心ももっていないように思われてしまうし、殴られたり傷つけられたり差別されていたり、あるいは泣いたり叫んだりしてるのを見せてもらわなくては「そういう人達がいること」が伝わらないと言われてしまう。

でも現実では、げろこやぷりんのような人は、いわゆる困難を抱えたマイノリティとされる人達は、泣いたり叫んだり、なかなか出来ないし、しないし、誰にも見られないところで殴られたり傷つけられたりしている。
「そういうことを見せてくれなきゃわからない」と言う、げろこやぷりんが見えない人達のために、傷つけられるマイノリティを舞台の上にのっけるのは嫌だと私は思っているのです。


「他者性が見えない」という時に人は自分を、げろこやぷりんのような立場の人達を「見る側」「ジャッジする側」にごく自然においているのだと思います。
ですが、ごく当たり前に自分をジャッジする側における人達こそ、げろこやぷりんから見れば圧倒的他者であり脅威であり、げろこやぷりんは常にその脅威と対峙して生きていかなくてはいけない場所にいる。


「他者性が見えない」という言葉には、「それとわかるように困難を見せてもらわなくては」という枕詞がつくように私には思えましたし、それは、とっくの昔にともに生きている人たちを透明にし、分断してきた言葉に聞こえました。

この脚本自体はフィクションですが、安心してステイホーム出来なかったり、コロナと関係なく、コロナの最中にも様々な困難に遭っているげろこやぷりんのような人たちは皆現実に存在していて、今もそれぞれ自分の人生を懸命に生きています。
朝起きたり、学校や仕事に行ったり行けなかったり、推しの舞台やライヴを楽しみにしたり、YouTubeをだらだら見てしまったり、眠れない夜があったり明日に希望をもったりしながら、今も多くの人達と同じ地平で生活しています。
そして、どうしてこんな風に生きているのかわからない自分の人生を、どうにか愛そうとして生きているのだと思っています。

この脚本を書かせてくれた、私と関ったり話をしてくれた人たちに感謝します。
脚本化の過程で、いつも正しい振る舞いが出来ていたわけじゃない自分、うまくあなたを尊重できないことがあった自分を申し訳なく思います。

自分からは見えない人達が、すでにこの世界に在って共に生きているということを眼差すことは困難ですが、あなた達と私達が、私達とあなた達が共に生きるのはそれから。
まだ全然これからなのだと思います。

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