私と大阪、ミナミの高校生。

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『大阪、ミナミの高校生』は、友人の劇作家オノマリコが、精華高校という大阪の高校演劇部の生徒たちと共同創作している高校演劇のシリーズである。これまでに3部作がつくられていて、約3年前の初演から、私は公演手伝いだったり純粋な観客だったりで、ふんわりとお付き合いのあるシリーズだ。
そのシリーズの一区切りとなる今月3月の沖縄公演に、つい先日までお手伝いとして参加してきた。座組の一員と言えるほどのコミットはしてこなかったけれど、初演からこのシリーズの高校生達を観つづけている人間として、思うところが色々ある。例えるなら、親戚の子供の高校入学から卒業までを見届けた叔母のような気持ちである。

『大阪、ミナミの高校生』シリーズは、3部作全てが、オペラの筋書きをベースに使用している。1部が『イエヌーファ』2部が『椿姫』3部は『エフゲニー・オネーギン』。その古典の骨組みを下敷きに、現代の大阪ミナミで生きる高校生達の言葉をストーリーの縦糸横糸のように編み込んで、全体を構成している。1部から3部へシリーズがすすむごとに、下敷きとなる古典と現代の高校生たちの言葉の境目は見えにくくなっていき、このシリーズ自身が、シリーズの始めの時に提示されたスタイルをどんどん脱皮していく形で創作がすすんでいる。その作品の脱皮と、作品に関わる高校生達の成長の過程もまた、観客の目には触れない部分での『大阪、ミナミの高校生』という作品の一部なのだと私は思っている。
この書き方は、「シリーズに関わる生徒たちも作品というモノ扱いしているのか?」という誤解を招くと思うので補足する。作品、という単語を聞いた時、ほとんどの人は彫刻とか絵のような、決まった形をもつ無機物を連想すると思う。舞台にもセリフがあり演出がつくので、決まった型があるといえばあるのだが、このシリーズの特色は、その時々の上演で関わる出演者が変わることで、劇中もまたダイナミックに変化していくことだ。関わる人間の変更は、再演のたび� ��主演者スタッフが変わる演劇では茶飯事だが、このシリーズは出演者の高校生達それぞれの「言葉」が構成に深くコミットしている。だから、上演のその時々の出演者の変更、あるいは出演者の状況の変化が劇中で生きる。今を生きている出演者たちの、まさに「生きている今」が作品をつくりかえつつ創作と上演が進行していくという、それ自体が生き物のようなシリーズなのだ。
「高校演劇」というパッケージには、芸術文化だけでなく教育という面が創作の過程でかかえこまれているものだけれど、『大阪ミナミの高校生』シリーズは、舞台上で展開される上演から、その上演までの過程や関わる大人と高校生たちを含めて、限りなく有機体に近い「作品」ではなかったか、と私は思うのだ。

3部作がつくられている3年の間に、卒業した生徒もいるし、転校したり、部活をやめた生徒もいる。1年の時に一言しかセリフがなくても、学年があがってから舞台の中心を演じた生徒、驚くぐらいに背が伸びた生徒、演技が上手くなった生徒、NOが言えるようになった生徒、心配していたけれど上手く大人になってくれそうでほっとした生徒。たまに会うだけの大人の私が毎回驚くくらい、皆が変わっていく。それにつれて作品も変わっていく。シリーズがすすむだけじゃなく、再演の合間にも、劇中にふと顔をだす生身の生徒の心と体が変化している。

このシリーズの発案者であるオノマさんは、高校生たちに「自分の言葉で語らせる」ことについて、とても考えていた。劇作家が書いたセリフなら出演者を守る盾になるが、高校生達の生の言葉に返ってくる反応から、どれだけ出演者を守ることが出来るのか。自分が演劇を通じてやろうとしている表現が子供たちを傷つける可能性があることに、「大阪、ミナミの高校生」のシリーズ創作を始める前からかなり自覚的だった。このシリーズ創作が始まる前に、私も彼女と話した覚えがある。自分自身が抑圧された未成年だった私には、その時自らの言葉を表現する場も機会もな�� �フラストレーションを抱えていた。誰にも聞いてもらえない、受け取ってもらえないという思いが燻ると、自分の命がくすんでいく。だからリスクはあれど、語りたいことがある子供達に、自分の言葉を「表現」にして語れる場所や機会があるのは救いになるのではないか、という話をした気がする。この世界や社会には、とりこぼされる小さな声はあまりにも多い。オノマリコさんはとても慎重に繊細に、シリーズの構成をしてきたと思う。

生きているものが変化をやめられず、変化することがある状態の終わりを避けられないのと同じように、このシリーズも今回の沖縄公演で一つの句読点をうつ。
だけどこの公演に関わった人々、自らの語る言葉の当事者として舞台にたった生徒たちそれぞれの人生は続いていく。上演された劇だけでなく、「大阪、ミナミの高校生」を創る過程という作品にも深くコミットした皆だから、この先の彼らの人生の過程も、意欲をもってよいものにしようと作り続けてくれるのではないかと思う。
こんなことも、シリーズをふわっと手伝っただけのお姉さん(私は自分をおばちゃんとは書かないことに決めてるので60すぎてもお姉さんで通す)のお節介であることは重々承知の助なのだが、私も『ミナミの高校生1』に登場した神様と同じ気持ちなのだ。
この世には呪われた土地、本当の悪が存在するし、人を呪う人もいれば、自分で自分を呪う自由すらある。
だけど同じように、呪われていない土地があり、人を呪わない人がいて、他人や自分を呪わない人間になれる可能性も、いつだって誰にでも開かれている。

顔を知ってる子供達のこれまでとこれからに、傷1つつかないなんて無理なことはわかっているけれど、どうか誰も致命傷を負わず、明るいことや楽しいこと、笑えることを少しでも多く集めて生き抜いていってほしいと思う。